
深淵をのぞいたことはありますか
前へ進む力も 戻る道も
見えなくなるあの瞬間を
今回は私の「絶望と希望の時代」のお話。しょっぱな↑からちょっと大げさにスタートです。
住宅の設計をしたい――小学生の頃に抱いた夢は、就職活動で大きな壁にぶつかります。
氷河期の冷たい風は、特に建設業界の女性には容赦がありませんでした。
それでも不思議な縁と根性でつながっていった、私の設計者としての道を振り返ります。
小学6年生で決めた「住宅設計の夢」
順調に間取りオタク気質を育てていた私は、小学六年生の頃には「将来は住宅の設計をしたい」と考えるようになりました。そして間取りが、家が大好きだからこそ、住まいが原因で生じる不和やストレスを減らしたい、そんな思いが強くなっていきます。
就職氷河期の壁、女性には氷点下の現実
しかし現実は厳しく、就職活動時は超氷河期(しかも建設関係が特に底冷え)。私の大学への女性求人は0、説明会すら参加することが許されませんでした。なんとか面接にこぎつけても「即戦力で働ける?」と聞かれる始末。実務経験はなく「即戦力で働けます!」などとはったりをかますこともできなかった私は、結果、就職浪人します。

拾ってくれた外構会社と、涙の採用通知
「未経験」だから門前払いされる、けれど経験を積もうにも働かせてくれる会社がない。
そんな絶望の中、拾ってくれたのが外構の設計・施工をする会社でした。契約社員からのスタートでしたが、採用通知が届いた時に友人が泣きながら喜んでくれたことは忘れられない思い出です。そしてここから私の長い社畜時代が始まります。
横浜での社畜時代とスキルの土台
社畜と言えば聞こえは悪いですが、病気になるほどしんどかった(実際、体の不調はもちろんですが、最終的にはパニック障害を発症します)ここでの7年弱。それでも今あの時間が人生の宝物のように思えるのは、一緒に働いた沢山の方々から数えきれない程のことを学ばせて貰ったからです。
土地の見方、敷地から逆算してプランを組み立てる力、デザインのロジック、植栽の知識、ヒアリングや提案の仕方、段取り力、次工程を考えた仕事の進め方、先輩からの虐めや一部の集団からの陰口があっても目の前の仕事をする根性。「拾ってくれた会社の為」「お客様の為」「自分が生きるスキルを得る為に」。
仕事をする上で必要なことのほとんどは、この会社で叩き込まれました。私の「設計者としての土台」は、ここで、つくられたのです。





地元での再挑戦、工務店で設計に携わる日々
横浜で働いていた私はやがて地元に帰るべく転職します。
心身の不調を抱えながらそれでも意地で働いていました。けれど「女性だから」という理由だけで、お給料が「設計・技術職」ではなく「定時退社の事務員」と同じ(実際はほぼ毎日終電帰宅です)と知ってしまい、少し、絶望したのです。スキル的にも頭打ちだと感じていた私は、そこで働く5年後の自分が全く想像できなくなりました。
幸運なことに一度は諦めた住宅設計でしたが、愛知の地元密着型の工務店が設計として採用してくれたことも、横浜での仕事に後ろ髪を引かれそうになる私の背中を押してくれました。実際、面接の場で「うちで働いて欲しい」と言われた時は、表面こそ冷静を装っていましたが『これはきっと神様からのご褒美だ』と心の中で天を仰ぎました。その後も何度も天や守護霊様とその会社に感謝しました。超氷河期世代の人間にとって、社員採用=奇跡なのです。
工務店では木造2×4工法での注文住宅の設計提案とインテリアコーディネート、電気配線の打合せ等の経験を積んでいきます。
しかし、ここでも待っていたのは社畜な生活。望んで社畜になっているわけではありませんが、スタッフの数と設計案件の数のバランスから、ブラックな勤務形態はほぼ必然でした。
その結果、6年後にしばらくなりを潜めていたパニック障害の再発、記憶障害、全身蕁麻疹に悩まされます。
その頃の私は、担当したお客様に対して『未熟な自分では申し訳ない、できる限りの提案ができるようにならなければ』と、責任感とオタクの性を密かに爆発させ、日夜残業に加え、休日出勤の合間を縫っては、ふらふらになりながら自費で勉強に出かけていました。
とはいえ、ここでも多くを学びました。2×4工法は独特の設計の難しさがありましたが、そのおかげで設計力を鍛えることが出来たのはラッキーでした。

「もっとお客様に寄り添いたい、もっと一緒に考えたい」――そう願いながら走り抜けた設計者としての日々。しかしその気持ちは、やがて新たなジレンマを生み出していきます。
次回は、その後の結婚・出産と転職、そして再び向き合った“家づくりの本質”についてお話します。
▶“About me”【第3話】はこちら